PARALYMPICS NAGANO'98

長野パラリンピック大会カザフスタンチームワックススタッフとして参加して

山梨県スキー連盟競技本部ノルディック部

 強化コーチ   富岡 俊士

富岡俊士コーチ

 私が初めて障害者スポーツに携わったのは、長野パラリンピック冬季競技大会をさかのぼること1年前、1997年のプレ大会でした。その時の日本代表チームのコーチ、荒井秀樹氏から手伝ってみないかとのお誘いを受けたことです。それまで、障害者スポーツはおろか、身体障害者の方とも触れ合ったことのない私にいったい何ができるのだろうかと、 不安を感じていたことを今でも思い出します。

 プレ大会は、各競技別に行われるパラリンピックのような大規模な大会ではなく、クロスカントリースキーとバイアスロンの2競技のみで行われ、参加選手もさほど多くはなく、国内外のトップ選手と役員のみが長野市内のホテルに集まりました。そこで、私は日本代表選手の顔さえも知らず、おろおろしてしまいました。
 さて、プレ大会での私の仕事というのは、日本チームのワックススタッフでした。大会2日目からクロスカントリー競技の行われる白馬村へ行き、朝から晩まで1日中ワックステストを繰り返しました。朝は午前8時から現地入りして、夜は午後8時にやっとすべての仕事が終わるという過酷なスケジュールを、 白馬村とバイアスロンの行われる野沢温泉村でこなしてゆきました。
 大会では、ブラインド、上肢障害、下肢障害シットスキーと、様々な選手が懸命にゴールを目指す姿を見て、感動と言うか、なんとも言えない胸の高鳴る思いに駆られました。
 大会も終わり、最終日のレセプションでやっと選手たちとワックス以外の話をすることができました。国内の選手はもとより、海外の選手とも通訳を通して話し、選手がどのようにして障害を抱えるようになったかなどを伺うことにより、私にとってこのレセプションでの経験は、障害者の方とお付き合いする第一歩となったのです。

 それから1年後の1998年、いよいよ長野パラリンピック冬季競技大会の時がやって来ました。私はどのような仕事をするのか知らされないまま、パラリンピック村へ行きました。パラリンピック村ではまず、白馬村のクロスカントリー会場と野沢温泉村のバイアスロン会場スタッフパスを作りました。プレ大会の時とは会場も選手、スタッフ達の雰囲気もまるで違ったものに見えました。
 私の仕事というのは、当初はクロスカントリーとバイアスロンの日本代表選手団の雑務係だったのですが、ひょんなことからカザフスタン選手団のワックススタッフとして働くことになりました。なぜ、カザフスタンのワックススタッフになったかというと、カザフスタンのクロスカントリー・バイアスロン選手団は、団長、選手、ガイド、それぞれひとりずつの3人という小所帯でしたので、ワックススタッフを連れて来なかったとのこと、前回のノルウェーで行われたリレハンメル大会では、主催国がワックススタッフを用意してくれたということで、日本選手団のもとに話が来ました。そこで、比較的手の空いている私のところに荒井ヘッドコーチから、カザフスタンチームのワックススタッフをするようにと指示がありました。

 そんなことから、私はカザフスタンチームのワックススタッフとして働くことになり、大会初日から慌しい日々が始まりました。というのも、その話がきたのが開会式の行われた3月5日で、野沢温泉でバイアスロン7.5kmレースが行われる前日の昼のことでしたから、それから長野市内にあるパラリンピック村に戻り、荒井ヘッドコーチか不足していたワックス用具をお借りして再びに野沢温泉村に戻り、ワックシングを始めたのは夜になってからでした。ブラインドの選手でしたので、選手とガイドのスキーのワックスを塗り終わったときは、深夜になっていました。
 カザフスタン選手団は、団長とブラインドの選手のセルゲイ・ロシュキン選手、セルゲイ・ロシュキン選手のガイドで息子のデニス・ロシュキン氏の3人でした。この小所帯のチームに私と通訳の3人を含めても、チームハウスが狭くなるということはありませんでした。通訳の3人の方もボランティアでしたので、スキーの専門的な知識はなく、ことクロスカントリースキーに対してはなお更のことでした。ですから、セルゲイ選手、ガイドのデニス氏と私、通訳との間で失敗を繰り返しながら、手探りの状態でワックスを仕上げてゆきました。

 クロスカントリースキーのクラシカル競技においては、ワックスに2つの種類があります。ひとつは滑走性を高めるためのグライダーワックス、もうひとつは登りを直進させるときにスリップ止めの役目をするグリップワックスがあります。 レース当日はグライダーワックスは仕上げてあるのですが、グリップワックスはレース1時間前から30分前くらいに調整するので、選手とガイドはウォーミングアップもしなければならないし、通訳を通さないと言葉の通じない状態の中でグリップワックスの出来はどうかなど、コースとチームハウスを何往復も走り、ようやくグリップワックスをうまく仕上げることが出来ました。選手がスタートするまでは慌しく、息をつく間もありませんでした。

 大会4日目の3月8日には、ガイドのデニス氏が風邪をひき、ガイドができないという緊急事態が発生しました。そこで急遽、私がセルゲイ選手のガイドを務めることになってしまったのです。パラリンピックのあったそのシーズンは私も大学の4年生であったということもあり、試合にもあまり出ず、練習もあまりしていませんでした。このような状態の中で、ガイドの経験もない私にできるだろうかと不安でしたが、私がガイドをやらなければセルゲイ選手はレースに出場することができないと、カザフスタンの団長やセルゲイ選手本人に懇願されて、ガイドとして出場することを決心しました。
 一時はどうなるかと思いましたが、レースは無事終わりました。しかし、即席のガイドと選手でしたので、セルゲイ選手は本来の実力を出し切ることができなかったのですが、セルゲイ選手から、「君がガイドをしてくれなかったら私はレースにすら出場することはできなかった。ほんとうにありがとう。」と言われて、何か救われる思いがしてほっと胸をなでおろしました。

 長かったようで短かった10日間が終わり、 長野パラリンピック大会も閉会式を迎えました。セルゲイ選手をはじめ団長、デニス氏皆がカザフスタンチームとして閉会式に一緒に出ようと言っていただきました。しかし、国際大会ということもあり、組織委員会の方からそれはできないと言われました。私にとって閉会式に出られないことは少々残念でしたが、たった10日間しか付き合いのない、しかも言葉の通じない私をチームメイトとして受け入れてくださったカザフスタンチームの暖かい気持ちが、本当に嬉しく感じました。
  1年前のプレ大会のときの私でしたら、障害者の方がスポーツをしていることに対し、大変だろうとか、頑張っているな、などという考えしかなかったと思います。しかし、今は障害のある選手たちと触れ合い、選手自身がどこまでは自分でできて、どこからサポートを必要としているかということが、わかるようになりました。
  私なりに思うのは、障害者は障害を持っていることは事実なのですが、競技に臨む気持ちは健常者となんら変わらないということです。それに対して、私たち健常者が同情の目で見たり白い眼で見たりすることは、正しくないと思います。

 最後になりましたが、私は本当によい経験をさせていただきました。それは、パラリンピックという大きな国際大会だからではなく、障害を持った方々と実際に触れ合い語り合ったことで、私自身が成長することができたからです。私の人生にとって大きな意義のある経験をさせていただいたことに対して、深く感謝しております。
 これを読んでくださった方が今後、障害者の方々に対しどのような見方をするかはわかりませんが、私としてはひとりでも多くの方が、障害者は障害を持っていること以外は健常者と何も変わらないことを理解していただきたいと願っています。

長野パラリンピック・大会概要 はこちら

 

長野パラリンピック大会にてカザフスタンチームと共に
カザフスタンチームと共に(1998年3月 長野パラリンピック・クロスカントリー競技会場にて)

 

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